高取焼の歴史


筑前黒田藩の御用窯であった髙取焼は、慶長五(1600)年、現・福岡県直方市郊外の鷹取山南麓において築かれた「永満寺窯」にはじまります。この永満寺窯を築いたのが髙取焼始祖・八山です。

初代八山・八蔵重貞は、士分に取り立てられ、筑前国に入部した黒田長政公より、鷹取山に因んで「髙取」の姓を拝領しました。髙取姓となってから、八山は慶長十九(1614)年、内ヶ磯に移り、「内ヶ磯窯」で十年間制作しました。

雄渾な作風から、次第に瀟洒で洗練された作風となっていったのは、この窯の後半です。徳川三代将軍家光公の茶道指南役・小堀遠州公の指導を受け、「遠州七窯」の筆頭として多くの中興名物を造り出しました。その後、初代・八山は白旗山(現・飯塚市幸袋)に窯を移し、同地で生涯を閉じました。

 

二代・八蔵貞明は、寛文五(1665)年、上座郡鼓村(髙取焼宗家現住所)に移り「鼓窯」を築きました。さらに、四代・源兵衛勝利は、享保元(1716)年、早良郡麁原郡(現・福岡市早良区)に「東皿山窯」を開き一年の内半年は鼓窯に滞在して双方で制作を行う「掛勤」を行い始めます。以後代々、明治四(1870)年の廃藩置県まで、この掛勤が続きました。

 

このように、永い伝統によって培われた髙取焼の技術は、秘伝書として残され、直系窯である当家に一子相伝によって伝えられてきました。


高取焼の時代背景


1600年頃、日本は戦国時代。当時、手柄を立てた戦国武将には恩賞として領地を与えられるのが一般的でした。しかし領地には限りがあるために茶の湯の名器を褒美として与え、家中の統制に活用していました。その後の泰平の世の江戸時代になっても、各地の大名は競って陶工を招き、名器となる器の生産に力を入れ珍重したのです。また、陶工も士分の位などを与えられて大切にされてまいりました。

黒田藩の初代藩主・長政公に見いだされた『髙取八山』(たかとりはちざん)もその一人です。
黒田藩は八山に福岡県直方市の鷹取山の地に最初の御用窯を築かせました。
その後、山田、飯塚、と移窯し二代目の時期に現在の東峰村に移り、現在の十三代八山までに至っています。
御用窯であった髙取焼は藩主にのみ献上していた隠し窯。
名器をひとつ焼き上げると残りは全て割り捨てられるほど、徹底した献上品作りを通したために一般の世の中では出回ることはありませんでした。
唯一無二の名器を生み出すには、薄づくりを叶える土と技術、さらに釉薬の製法にこだわりと秘法が込められています。釉薬は一子相伝の秘伝書を通じて伝えられておりますが、伝承者のみにしか理解できない記述となっており、四百年もの長きに渡って、秘密は守り続けられています。

 

高取焼宗家はこうして一子相伝の技法を頑なに守り続け、権力者や茶人のみにしか持つことができなかった唯一直系の伝承の窯です。


髙取焼直系窯変遷図・系図 黒田藩御用窯


髙取焼を名乗る窯は、様々ございますが、初代から直系で「八山」(はちざん)を受け継いでいるのは髙取焼宗家です。

高取焼の直系窯として



初代 八山と妻しらとの墓。

飯塚で没した初代の墓を当窯元に移築した。

当時の黒田藩の末裔である黒田長禮公のご厚意により、朝鮮式の盛り土の墓を建立。


撃鼓神社


 

 

 

髙取焼宗家の敷地内にある神社。

天照大御神様と焼き物の神様が祀られています。



茶室 残月


 

 

 

当窯元に移築した茶室。

 

 

現在の福岡市内の千代町あたりにあった迎賓館「常盤館」にあった離れのお茶室。

その昔、中国の指導者・孫文が寝泊まりしていたという。